小雨日和

自分が書きたかったことをマイペースに書いていきたい

モノクロームな日々

毎日が単調だ。
自分の生きている世界の色が失われているような感じがする。
日常が灰色になっていく。
この頃僕は写真を撮らない。


好きなことを好きでいるのにもエネルギーがいるのだと思う。毎日同じことを繰り返していくとだんだんと曜日感覚がなくなっていくし昨日食べたものにも興味を失ってしまう。きっと明日もなんとなく起きて(実際に起床するときはただならぬ葛藤を経ているが)なんとなく授業を受けてなんとなく帰宅してなんとなくスマホを眺めてなんとなく寝るだろう。今日も昨日も一昨日もそうやって過ごしたのだから。そうやって色彩感覚の失われた日常を過ごしていると自然とそれ以外のことがやれなくなる。惰性の圧力はそういう風にのしかかっていくものだと思う。受験生の時もその惰性を利用してとりあえず図書館に向かって、とりあえず問題集を開けたから勉強を続けられたようなものだ。その巨大な圧力である惰性は日常を自動化していく。登校するとき僕は気づいたら永田町で乗り換えているし、気づいたら井の頭線に乗っている。生活が身体の反応になってしまっているのだ。この無意識の反応は趣味へのエネルギーを奪っていく。どうにもめんどくさい。カメラを持ち歩くのが億劫だ。高校生の頃は鉄道が好きだったが受験が終わるころにはそうでもなくなってしまったように、今度は写真に興味がなくなってしまっているのかもしれない。きっと漠然と社会人になることに不安を覚えてしまうのも、社会人になったら毎日が自動で行われて気が付いたら人生が終わってしまうのかもしれないと思うからだろう。
毎日が同じことの繰り返しだと感じるのは僕だけではないだろう。こういう単調な日々を恐れているからこそ、違うことをしたときにInstagramにあげるのだろう。Instagramが日常でないものを集積するように、僕たちは毎日が単調であることを恐れている。単調であることはつまらないのだ。


しかし一度立ち止まってみる。

本当に日常は単調だろうか。
多分考え方次第である。単調だと思えば単調だ(実際僕は今の生活を単調だと感じた)。

でも単調でないと考えればそうではないように思う。実際、授業を受けると一括りに言っても同じ教科の授業ですら毎回やっている内容は違うし、空は毎日違った模様をつくっている。形式は定型で表現出来ても内容はいつでも不定型なのだ。誰もが生まれても必ず死んでいくとはいえ、誰も必然的に生まれてきた人なんていない。僕たちの日々も1日は24時間と決まっていてもどの1日も同じものではない。毎日を必然ととらえるか偶然ととらえるかはその人による。つまらないと思うからつまらないのであり、おもしろいと思えばおもしろいのだろう。そうはいっても僕はやっぱりつまらないと感じてしまうし、僕の日常は旅行のように彩りと刺激にあふれたものではないし、どんよりとしていて灰色だ。でも、灰色にも濃度がある。モノクロームな世界にも美しいといえるものはあるし、案外近いところに面白いは転がっているのかもしれない。さっき毎日が自動で過ぎていくように思うと言った。多分無意識に身を任せてぼんやりと過ごせばそういう風になる。そこで僕は目を覚ましてみよう。自動的に行われている日常に乗りながら、その中の日常の機微に触れていきたいと思う。それは微妙なものでいいし形に現れなくてもいいだろう。実は単調には少しだけ起伏が存在しているという可能性を信じよう。きっと世界は偶然でできている。こう思うことが好きなことを好きでいるためのエネルギーなのかもしれない。


明日はカメラを鞄に入れていこうと思う。