小雨日和

自分が書きたかったことをマイペースに書いていきたい

どうでもいい春休みが始まった

春休みである。

春休みになってからずっと悩んでいる。

 最初の方は試験あんまうまくいかなくて抑うつ的になっているだけのような気がしていたが、最近は何について悩んでいるのかすら定かでない。だらだらと悩んでいるだけなのも時間がもったいないような気がしてきたので、久しぶりに適当に書ける範囲でとりとめのない文章ではあるが書いていこうと思う。だから以下の話に論理的な正当性とかはあんまりないだろうし、ただ不満に身を任せて書いているだけであると言い訳させてもらう。

 試験期間中は自分が世界一不幸な人間といわんばかりの陰鬱とした気分で試験が過ぎるのを待っていたが、それもそれでおかしな話だと思う。僕は僕が世界一不幸な人間ではないことを知っているし、世界幸福ランキングなるものを作ってみればなんなら割と上位に入るくらい恵まれた生活であろうことを知っている。さらに言うなら同学年の他の学部学科の人を見ていても別に自分だけが嫌な思いをしているわけではないことくらい容易に想像がつくし、僕はもっと平然とした顔でふるまうべきなのではないかとすら思っていた。そういう相対化された自分の姿、この立場でのあるべき姿、のようなものを認識していても、気づいたら弱音を吐いている自分がいた。もう最悪だ。この種の自己嫌悪は、一度始まったらなかなか止まらない。弱音を吐く自分に嫌気がさし、それがストレスになりさらに自己嫌悪が捗る。そうやって自壊していく姿すら醜悪なものであった。

 こういった負の感情というものは非常にめんどくさい。その存在だけで苦しめるし、そこに基づいた発言のようなものがさらに自分を束縛してくる。例えば、自分がテストで優を取りたかったのに良しか取れなくて悔しい気持ちだったときに、話している相手に「オレ、あのテストで単位取れたんだぜ?すごくね?」といわれたとする。優取れると思っていた自分からすれば微塵もすごいとは思えない。おまえはもうちょっと勉強しろよとすら思ってしまうかもしれない。それでも人間関係は「すごいね」と返せという要請をしてくる。自分の感情を抑えて、いや抑えるどころか否定して、相手を認めることを優先しなければならないのである。これくらい単純なケースであれば本音で「すごくねえよばーか」くらい言ってもいいかもしれないが、社会性フィルターにひっかかるようなデリケートなやり取りでこういうことが起こってしまうともうめちゃくちゃめんどくさい。そういう話を僕に持ち出してくるなよみたいなことすら思いながらも適当に返さざるを得ない。適当に返している時は自分の悔しさや抑うつ的感情からくる潜在的な立場もなかったことにしているので本当に嫌いだ。嫌いで仕方がない。そういうのを解消するにはどちらかに自分を寄せるしかない。片っ端から自分を曝け出して本音だけ言って生きていく(ほんとにそれで生きていけるのか?)か、そもそも楽観的に生きることで自分を束縛してくるほどの強い感情をなくしてしまうことだろう。前者はあまり現実的でない。生きるときの負荷を減らしたいのに、色んな人と衝突して多分却って負荷が増えてしまうと思う、憶測だけど。だからおそらく楽観主義者が最強に生きやすい。

 楽観主義は要するに自分とか他人とかいろんな人の都合が良くなるように生きます宣言である。自分が褒められれば素直に感謝するし、自分がdisられてたら自分が治せる範囲で反省して「改善」していく。他人の主張にもおおらかな気持ちで返すべき回答を以って返す。多分さっき出したケースを用いるなら、「すごいね!」って言いながら内心で最初は優取れなくて悔しかったけど良取れてるオレはさらにすごいんじゃね?みたいな感じで修正してしまえばいい。そうやって細かい矛盾を後天的に回避することで誤魔化しながら生きていくのは割と楽だ。自分も初志貫徹!みたいなことはほとんどできていない気がするがそれでも人生に概ね満足してしまっている時点でかなり楽観的に生きている。楽観的に生きると、細かいことは少なくとも事後的には本当にどうでもよくなる。大学受験だって受かってしまえば開示なんて心底どうでもいいものだし、進振りだって決まってしまったものを後悔したところで最高の人生が始まるわけではないことくらい容易にわかるのだからそんなことに心を腐らせていることの方がよっぽど愚かなのである。

 どうでもいいことに気をもむべきではない、どうでもいいのだから。わかっている。くよくよせずになめらかに生きていくのが最善手であろうというのはわかっているはずなのだ。でもどうしようもなく気に食わないことがある。どうしてか、気に食わない。気を取られたところで何かが変わるわけでもないことにひっかかる。自分の感情を一時的に押し殺すくらい本当にどうでもいいことのはずだ。目標を達成できなかったからと言って今更悔やんでも仕方ないはずだ。多少失敗したところでちょっと下方修正すればいいだけのことだ。人生に目標がなくたって別にいいのだ。僕の人生がどうなったところで世界が変わるわけではないのだ。さらに言えば僕が世界が変えられたところで、それにはなんの重要性も見いだせないのだ。

  じゃあ全て結局どうでもいいことでしかないのか?

  僕はその答えを知らないし、その答えですら多分どうでもいいことなのだろう。

 どうであれ自分はどうでもいいことが気になって仕方がないのだ。気になったところでどうしようもないし、最早それは正誤判断をする意味すら失っている。自分の意固地が憎らしいという悲観的な話でもあるし、何かどうでもいいことだとわかっていてもそれに固執することこそがアイデンティティなのかもしれないという楽観的な話でもあるかもしれない。そういう相対化ですらくそくらえなのだ。結局長々としてきたこのくだらない話は自分は自分の立場わかってますよアピールの一環でしかないし、そんなアピールをしたところでなんの言い訳にも使えない。こういう否定は循環構造をもつから延々と反省することができるし、もうそういってしまった時点でそれは反省ではなく反省もどきでしかないこともバレてしまう。だから飽きるまで続けるだけなのだ。どうでもよくないように感じちゃったことがどうでもよくなるまで。そろそろくだらない文章書くのもめんどうになってしまったのでこれくらいで終わり。